The House That Jack Built/2019(デンマーク、フランス、ドイツ、スウェーデン)/155分
監督/脚本:ラース・フォン・トリアー
主演:マット・ディロン/ブルーノ・ガンツ、ユマ・サーマン、シオバン・ファロン
マザーグースの童謡
・・遅ればせながら、ようやく話題の怪作を観に行ってみたが・・・
何時の頃からか、ユマ・サーマンにはどうしても嫌悪感を感じてしまう。
・・それが、屈折した自分の留学経験からの、強い白人コンプレックスからなのは明白なのだけど。。
若い頃には、ランコムやルイ・ヴィトンの広告塔も務め、マクロビオティックなんて陰陽論を取り入れた菜食主義を貫いていようが、その美意識の高さには何故か嫌みを感じる。
ヒステリックなまでにヒトの狂気性をぶちまける映画を撮り続けるラース・フォン・トリアー監督作品も、正直、あまり得意じゃない。(・・まあ、彼の作品が好きなんて言ってしまうヒトは、大抵キモがられるけど。。)
『ドックウィル』ではニコール・キッドマンの精神を徹底的に追い詰め、『アンチクライスト』では強面のウィレム・デフォーにさえ、自分の性癖をそのまま投影させた善人を演じさせてしまう程の彼は、結局、どSなのかどMなのかさっぱりわからない。
そんな彼の作品は、どちらかと言えば、エンターテインメントというよりは自分の苦手なアートな作風で、更にその自己満ぶりをひけらかしてくる映像には、どうも奥歯がむず痒くなる。
けれど、今回の『ハウス・ジャック・ビルト』は、ちょっとその毛色が違う。
これまで見た目を裏切るキャラクターを俳優に挑戦させる事が多かった彼の持ち味はすっかり鳴りを潜め、随分真っ直ぐに異常者の性癖を曝け出してくる。
『クラッシュ』以降、徐々に根がやさしいキャラも定着してきたマッド・ディロンに、主人公の心の空っぽな殺人鬼をやらせてみたり、すっかり脂の乗った熟女と化したユマ・サーマンに、自分の印象そのままのまさに厚顔無恥な女をやらせてみたりする。
今回のタイトルの『ハウス・ジャック・ビルト』とは、マザーグースの童謡からの引用らしいが、彼は等々この映画に自分の偏執性を全て曝け出してきたのだろうか?
まるで、“つみあげうた”と呼ばれるこの童謡に、カンヌからも忌み嫌われたその自分の悪癖を、開き直ってもう一度積み上げるかのように・・・
あらすじ
1970年代の米ワシントン州。
建築家になる夢を持つハンサムな独身の技師ジャックはあるきっかけからアートを創作するかのように殺人に没頭する…。
彼の5つのエピソードを通じて明かされる、“ジャックの家”を建てるまでのシリアルキラー12年間の軌跡。
Filmarksより引用
強迫性障害の殺人鬼
川崎殺傷事件でも示されたように、自分達は大抵殺人鬼の心理なんかには目も向けない。
それは知る事自体に恐怖を感じるから?
或いは、危害を加えそうな外敵から身を守る生物としての本能?
きっとそのどちらも正解なのだろうが、加速する個人主義の副産物として、必然的にポロっと零れ落ちてくるこの人の闇に、そろそろ目を瞑ってばかりもいられない。
そんな怖いもの見たさからでも、ラース・フォン・トリアー作品を覗いてみるには、この作品はちょっとうってつけなのかもしれない。
少々尺の長い映画だが、5つのチャプターに分け、それぞれのストーリーが脱線しかけるタイミングで、上手く閑話休題が設けられている為、それなりに見やすく感じられる。
つまり、ラース・フォン・トリアーの描く毎度おなじみの狂気の沙汰に耐えられなくなった観客は、その都度、気軽に退場できる。
これまでの彼の歪んだ性癖の中では、この手の優しさは皆無だった。
彼の代表作の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかでは、140分にも渡る長時間、観客のお腹の底の温度をじわじわと下げ続けてくる。
・・まるで自分の秘める醜悪な闇を、ゆっくりと述懐していくかの様に・・・
その点今回の作品は、随分マイルドな感じもする。
それでも初めて彼の世界を覗いてみた人には、かなり難解で強烈なインパクトの問題シーンも盛り込まれているので、まずはそんな監督が主人公の殺人鬼、ジャックに反映させた強迫性障害という精神疾患の定義を簡潔に。。
強迫性障害(きょうはくせいしょうがい、英: Obsessive–compulsive disorder , OCD)は、不合理な行為や思考を自分の意に反して反復してしまう精神障害の一種である。
同じ行為を繰り返してしまう「強迫行為」と、同じ思考を繰り返してしまう「強迫観念」からなる。
不安障害に分類され、多くはその行為に日あたり1時間以上を費やしてしまう。
wikipediaより抜粋
なるほど、極めて単純明快。
共感性が著しく欠如していく現代人の、不安の象徴そのままだろう。
近年北米では、新たなシリアルキラーが誕生した。
彼の名は、サミュエル・リトル。
かいつまんで説明してしまうと、彼は70年代から半世紀近くをかけ、90人近くの殺害を刑務所の中で自供し、一躍米国史上最悪の連続殺人鬼に躍り出た。
「自分の世界で自分のやりたいことをやっただけだ」
と警察の取り調べに対し平然と言い放った彼の言葉通り、この殺人に対する罪の意識を全く感じない人間は、一定数以上、必ず社会に存在する。
それはまさしく『ハウス・ジャック・ビルド』のジャックの世界そのまま。
この常人ではあまりに理解し難い人間の精神構造を、世界中の観客に衝撃を与え続けてきた監督は、ご丁寧にも殺人鬼のいいわけを付け加え説明してくれた。
ともすれば、自分の悪癖に対する贖罪の意識とも感じられてしまいそうな、トリアー監督の真意は、一体何処にあるのだろうか?
因果論に裏打ちされた儚き世界(※以下、ネタバレあり)
これまで鬱描写を前面に押し出してきたラース・フォン・トリアー監督は、今回の映画では意外にもまず、世の不条理から始まる。
冒頭に説明したユマ・サーマンは、その典型例の一つで、臆病で傲慢、更には自意識のちょっぴり高い世の典型的な勘違い女性の王道ともいえる存在。
そんな彼女に思いがけず出くわしてしまった事によって、ジャックの秘めていた衝動が開花してしまうのだが、山奥にマイホームを自分の手で築き上げる夢を見ていたジャックが、都合よく死体の運搬には最適のハイエースや冷凍倉庫を所有していたりと、劇中には用意周到な設定が何故かてんこ盛り。
つまり、ラース・フォン・トリアーは、意図的にこの偶然の中の必然性を説いてみたかったのだろう。
やがて稚拙な手口だが、第二第三の殺人と、次々に手を染めていくジャックの描写は、何故か滑稽でありながらも、強迫性障害を抱える男が徐々に回復していく一種のサクセスストーリーの要素まで盛り込んでいる。
神経質だった男は次第に大胆になり、その手口は実にシンプルに。。
それでいて、同じシンプルなんて名付けるエアーヘッド女性に薄っすらと愛情を示してみるも、その彼女の絶叫にさえ気づかない無能な警察の車に、切り取った女の乳房を張り付けてみたりと、完全に常軌を逸していく。
劇中では殺人鬼の言いわけとして、荒いモノクロ映像のアニメが登場する。
それは街頭の下を歩く男が、疑惑の光に晒される事によりその影に怯え始め、その闇が自分の体と同化する瞬間(街頭の真下に辿り着いた瞬間)、次の殺人を犯す衝動にかられるというもの。。
この説明は、すんなり納得がいく。
つまり、光は必ず闇を産み、闇もまた必ず光を産みだすという、ある種の因果論に裏打ちされた諸法無我(しょほうむが)の儚き世界。
けれど、自分の歪んだ性癖をそのまま載せた主人公にこの手の解釈をつける程、今更その醜態ぶりを弁護していきたい監督にも思えない。
或いは、胸の内に秘めた破滅願望を、その爆発寸前の精神状態の中で、一気に吐露してみせたのかと思いきや・・
悲しみの性
・・ここからは、監督の描きたかった異常者の心理構造に、敢えて踏み入ってみるつもりだが・・・
解説が前後してしまうが、この主人公の殺人鬼は誰よりも理論整然と物事を考え、それを実行に移す。
家庭を知らない彼は、それを理解する為、第三のチャプターで母子と出逢う。
出会い系?か何かで出逢ったのであろう彼女達に、ジャックは父親の在り方、銃の扱い方等を丁寧に説くが、その承認欲求が満たされた瞬間に彼らを無残に虐殺する。。
この常軌を逸した残酷描写を目の当たりにすると、誰もがたじろいでその心理から目を背けてしまいそうだが、この極端なエゴイズムこそが、共感性を欠いた者の哲学なのだろう。
インサート映像によって示される田園風景は、連続猟奇殺人鬼と化したジャックの目頭を、それでも唯一熱くする。
その農民が小気味良く草を刈る音に、束の間の恍惚をジャックが覚えるのも、それはまだ自分が欠けている事にさえ気付いていなかった幼少期の思い出に戻れるからだ。
冒頭で説明したこの映画のタイトルのヒントにもなった“つみあげうた”に、違和感を感じる方は少ないのだろうか?
つまり、逆説的に付加価値が付け加えられていくジャックの家は、本来、家族が生じる事によって自然と築かれていく家の幻影風景に対する嫌みだ。
そんな中、このつみあげうたの歌詞通りに、ジャックは自分にない何かを補填するように、まずは家を建ててみようにも、その肝心の中身を想像する事ができず、計画は頓挫。
そして弱者への優越感によって、自分の強迫性障害を克服するすり替え作業に転じていく彼はあまりに惨めだが、それは見方によっては、幼気で実直な精神を持つ男の悲しみの性のようにも感じてきてしまう。。
ホラーというにはちょっと抽象的な、ドラクロワ作の「ダンテの小舟」の絵画の中に入り込んでいってしまうジャックのエッジの効き過ぎた妄想世界はちょっと頂けないが、きっとそこまでしてでも孤立を深めファンタジーの世界に逃避する現代人の写し鏡を表現してみたかったのだろう。
・・やがて、そのカオスの波に飲み込まれていくジャックは、煉獄の炎へと吸い込まれていくが・・・
それはまるで、王道のフェミニズムや倫理観によって塗り固められてきたハリウッドに、ようやく反旗を翻す狼煙を上げようとしながらも、やっぱり、大局に飲み込まれていくラース・フォン・トリアー自身の分身の様に見えてきてしまうけど。。
「ハウス・ジャック・ビルド」の上映スケジュールはコチラで確認できます。
www.mariblog.jp