マリブのブログ

ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ

映画『サスペリア』の私的な感想―リメイクされた本物のモダンホラー―(ネタバレあり)

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Suspiria/2018(アメリカ、イタリア)/152分
監督:ルカ・グァダニーノ
主演:ダコタ・ジョンソン/ティルダ・スウィントン、ミア・ゴス、クロエ・グレース・モレッツ、ジェシカ・ハーパー

 本当の狂気

ホラー映画のリメイク物は大抵駄作に終わる。

それは恐怖の根本を蔑ろに、進化した映像処理に依存してしまう自分達の悪癖でもある。

 

78年のホラーの生みの親ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』に、”走る”という新しいエッセンスを加えて世に送り出した『ドーン・オブ・ザ・デッド』や、孤独感を徹底的に追求した82年のジョンカペの『遊星からの物体X』の質感をそのまま踏襲して前日譚を描いてみせた『遊星からの物体X ファーストコンタクト』等の例外はあるが、それでもオリジナル版を越えたかと言われるとちょっと閉口してしまう。

そこそこの評判を呼んだ前者のザック版『ゾンビ』なんかも、その世界観をぶち壊されたロメロに痛烈な批判を受けたわけで、ホラー業界特有の監督の独占欲を宥めるのは結構難しい。

そんな例に漏れず、この作品もオリジナル版の監督ダリオ・アルジェントからは日本公開直前に、

「オリジナル版の精神に対する裏切りだ」

とまで激昂されしまったようだが、その軍配は間違いなくリメイク版の監督ルカ・グァダニーノに上がったと言えるだろう。

とは言っても、シチリア生まれの彼の代表作『君の名前で僕を呼んで』は実は未見なのだけども、そのメロディアスでダークな質感は、青春モノよりコッチの方が相性がいい気がする。

劇中に出てくる寒々しいベルリンの街の風景ショットや、モダンカラーの色調感覚はヨーロッパの思想的な伝統文化とすっかりマッチし、何よりも彼が真正面から捉えた70年代のティーンの宗教観は、かなり秀逸。

元々、ダリオ・アルジェント自体の尖った色彩感覚や音響効果によって支えられていたこの作品のオリジナル版は、ホラー映画というよりもアート作品にカテゴライズされる類なわけで、そこに魔女の定義や伝承秘話等を織り交ぜ恐怖の核心をついてきたルカ・グァダニーノ監督の方が、その精度は数段上回っている。

更にその予想の斜め上をいく顛末には、ホラー映画ファンならずとも、誰もが劇場で舌を巻いてしまっただろうが、そんな彼の描いてくれた本当の狂気を今回はちょっと深掘りしてみたい。

 

 

 

 

あらすじ

1977年、ベルリンを拠点とする世界的に有名な舞踊団<マルコス・ダンス・カンパニー>に入団するため、スージー・バニヨンは夢と希望を胸にアメリカからやってきた。初のオーディションでカリスマ振付師マダム・ブランの目に留まり、すぐに大事な演目のセンターに抜擢される。そんな中、マダム・ブラン直々のレッスンを続ける彼女のまわりで不可解な出来事が頻発、ダンサーが次々と失踪を遂げる。一方、心理療法士クレンペラー博士は、患者であった若きダンサーの行方を捜すうち、舞踊団の闇に近づいていく。やがて、舞踊団に隠された恐ろしい秘密が明らかになり、スージーの身にも危険が及んでいた――。


公式HPより抜粋

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 オリジナル版への挑戦

公式HPではオリジナル版に対する究極のトリビュート作品なんて謳われているが、この表現はダリオ・アルジェントを少々慮り過ぎている。

 

ストーリーは主人公のスージーが舞踊団に入るトコロと、その友人関係程度くらい迄はなんとか継承されているが、それ以外は全くの別物。

オリジナル版のライティング効果やSEには殆ど頼らず、舞踊団の質感やドイツ暗黒時代のそのダークな背景等にルカ・グァダニーノ監督は全精力を注いでいる。

 

しかし追求していくとモダンホラーの本質は、人間の狂気ではないだろうか?

 

甘美な魅力と怪しげな魔力を持ち合わせた舞踊団というモチーフに、悪魔崇拝的な恐怖を擦り合わせてしまうのは、冷静に考えれば少々安直過ぎる。

それをアーティスティックな色彩感覚でどんなに色づけても、所詮エログロのゴア映画の域を出るものにはならない。

そこでルカ・グァダニーノ監督は、美の象徴にも謳われるこのオリジナル版のバレエ学校を、個性的な印象の強いコンテンポラリーバレエ集団にまで変遷させ、その美的感覚の裏で蠢く醜悪な人の本性との対比、更にはその彼女達の内省的な面をも発露させる事にきちんと着手した。

そしてあどけないながらも体当たりの熱演をしてみせてくれたダコタ・ジョンソンを、フランスでは技巧派の呼び声が高いシルヴィー・テステュー等が花を添え、消えかかっていたハリウッドの青春映画の定番少女クロエ・グレース・モレッツさえまでもが、気を吐いた演技で好演している。

オリジナル版で主演を演じたジェシカ・ハーパーが、この作品に脇役での出演を監督から打診された際に、躊躇わず快諾したエピソードまであるが、それは邪推を控えても間違いなく英断だろう。

 

つまりこの作品はオリジナルのただの美意識に、真っ向から勝負を挑んだ意欲作。

 

40年以上の歳月を経て、監督が長年疑問符を抱き続けていたヴィジュアルだけの恐怖への挑戦は、少々難解ではあるが見事に成功したと言うべきだろう。

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 ティルダ・スウィントンの怪演(※以下、ネタバレあり)

前述した様にオリジナル版から殆どの設定を一新されたこの映画の中には、一度見ただけではあまりに難解なバックグランドを持つキャラクターが何人か存在する。

その一人、オリジナル版の理事長代理のマダム・ブランク、或いは厳格な主任教師のタナー女史を改編して作られたカリスマ振付師マダム・ブランは、主人公のスージーが憧れ続ける存在でもあり、舞踊団の実質権力者。

フィクサー』でアカデミー助演女優賞と英国アカデミー賞をW受賞したティルダ・スウィントンが演じる彼女は、その180cmの長身を生かして物語の中核をしっかり担ってくれたが、最後までその正体は明らかにされない。

 

そしてもう一人の謎の人物は、ジョセフ・クレンペラー博士と呼ばれる心理療法士。

この老人はティルダ・スウィントンが詳細なプロフィール迄作り上げたルッツ・エバースドルフという架空の男性俳優で、4時間にも及ぶかなり凝った特殊メイクを施してまで一人二役を演じてみせたのだが、調べてみるとこの人物にはヴィクトール・クレンペラーという実在のモデルが存在する。

ヴィクトール・クレンペラー

1881年、改革派ラビの8人目の子供として生まれ、ユダヤ人では将校にも
正教授にもなれなかった彼は、31歳の時プロテスタントに改宗した。
その後、第一次世界大戦では将校として参加した後、モンテスキューの研究書等を著し大学教授となる。
当初はナチスによって国民の「啓蒙者」として祭り上げられた彼だが、元々の血筋でもあるユダヤ人の系譜によって迫害を余儀なくされる。
第二次世界大戦後に東ドイツに移り住んだ彼は、西側からは共産主義
のしもべと非難され、東側では反全体主義者、或いは労働階級の盟友と視なされ居場所を失う。
そして彼は教授のポスト、家、国民としての権利等、殆ど全てのものを失うが、16歳のころから綿々と書き続けてきた2万ページにも及ぶ日記が95年に刊行され、その死後になってようやく東西冷戦期の代表的な犠牲者として、文学史にその名を刻むようになる。
その最初の巻のキャッチフレーズは「私は最後の最後まで証人であり続けたい」という密かな書き込みで、ユダヤ人ではない妻のエヴァが献身的にその日誌をドレスデン郊外の女友達の元へと運び続けた事によって、その記録は後世に無事に残される事となった。

ドイツ的分裂の記録 /ヴィクトール・クレンペラーの日記より抜粋

 

彼の半生を描くだけで一本の映画が撮れてしまいそうな程のこの裏設定は、劇中では全く語られないが、舞踊団の秘密に近づいていったスージーの友人サラに最初に助言を与えるのは彼だ。

ホロコーストの狭間で生き延びていた彼が、当時のドイツの社会情勢をそのまま暗喩したかのような権力闘争を繰り広げている舞踊団の核心に迫っていく様子は、正しくそんなヴィクトールの半生に敬愛の念を込めたオマージュ。

その彼の生き別れた妻エヴァ(役中ではアンケ)役にジェシカ・ハーパーを起用してきた監督の粋な計らいも見逃せないが、当時の東ドイツに実際に漂っていた閉塞感を舞踊団の怪しい裏の顔にそのままリンクさせてきた監督の演出方法には思わず唸ってしまう。 

・・そして、ティルダはクレンペラー博士と更にもう一人、意外なある人物をも演じているのだが・・・

 

 

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 改編されたラスト

ここでいよいよ核心に触れてしまうが・・

スージーの甘美で野性的なコンテンポラリーダンスの裏で肉塊と化すオルガの謎も、行方不明となったパトリシアの行方をミア・ゴス演じる相棒のサラと追う彼女達のサスペンス劇も、このホラーの本質を紐解く為の、一つの要素にしか過ぎない。

やがて彼女等の舞踊団の裏には、クレンペラー博士の追う近代社会に紛れ潜む魔女達の存在が明らかになるのだが、その顛末はオリジナル版とは大きく異なっていく。

生きる屍状態の元の学園長エレナ・マルコスの惨たらしい造形はオリジナル版とさほど大差はないが、ルカ版の『サスペリア』ではその黒幕は彼女ではない

 

タイトルの語源はトマス・ド・クインシーの小説「深き淵よりの嘆息」をモチーフにした「魔女三部作」からくる「Suspiriorum」=溜息の母と称される魔女。

その正体をあろうことか主人公のスージー・バニヨン本人に憑依させることによって、この映画の着地点は180度変わってくる。

 

いや、それは憑依ではなく存在そのもの。。

 

つまり、オリジナル版ではダリオ・アルジェントが80年の『インフェルノ』や07年の『サスペリア・テルザ最後の魔女』によって退治し続けてきた魔女そのものをスージーに置き換えてしまったという荒業を成し遂げたわけだ。

ここで勧善懲悪なオリジナル版とははっきり袂を分かってきたのだが、それではラストの地獄絵図さながらの舞踊団の儀式とはいったい何だったのだろうか?

 

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 魔女の定義

メタファ的に登場人物を準える手法は『mother!』や『コクソン』のそれとも大分類似しているようだが、ルカ・グァダニーノ監督のそれには、まず前述した作品の様な悪意や皮肉がない。

一見するとその阿鼻叫喚のラストでは多くの観客が絶望感を味わってしまうかもしれないが、その前にちょっと監督の提示してきた魔女の定義を少し咀嚼してみた方がいいだろう。
 

魔女とは、古いヨーロッパの俗信で、超自然的な力で人畜に害を及ぼすとされた人間、または妖術を行使する者のことを指す。
現代の人類学では非ヨーロッパ諸国の呪術にシャーマニズムの概念を適用することがあるが、ヨーロッパの魔女や魔法にもシャーマニズムに通じる面があることが指摘されている。
wikipediaより抜粋

 

仏教伝搬以前の日本にも八百万神がいる様に、シャーマニズム的な側面を兼ねそろえる彼女らの大元は、古くからの土着信仰に帰依している。

“Suspiriorum”の語源も、古いイタリア語(ラテン語)の”suspiro”(溜め息, 嘆き)からきており、それは古の伝承を重んじる潮来(イタコ)、或いは卑弥呼を頂点とする巫女のような存在だったのではないだろうか?

 

つまり政治的なキリスト教の布教により、呪術師や魔術を操る者としての自分達の認識自体が間違ったものだったとしたら・・・

 

そんな偏見により、異端とされ弾圧されてきた魔女に対する概念には、どこか異文化を寄せ付けない他民族に対する迫害の歴史にも通じるものがないだろうか?

 

“サスペリオルム”と称されるこの“嘆きの母”は、世紀を超えてスケープゴートにされ続けてきた人々の哀しみの象徴

それをオリジナル版の館に潜む悪魔から実体を持つ存在に置き換えてきた事で、監督が微かにこの作品に込めたアンチテーゼが見えてくる。

そうするとラストの血みどろの殺戮劇はそれぞれ、

エレナ・マルコスとその一派の死=パルチザン化していく過激派地下組織の魂の浄化、或いはその再生

サラやパトリシアに与える死=安息を求める者達への魂の救済

だったようにも感じられてきてしまう。

それは“嘆きの母”と化したスージーが、舞踊団に囚われていたクレンペラー博士の悲しみの記憶を消し去る描写にも表されているが、それならばエレナに付き従ってはいたが、理想の舞踊団を作り上げようとしていたマダム・ブランまでもが何故鍵爪の悪魔に殺されてしまったのか?

これを説明するには、THE RIVERに掲載された監督談がその疑問をしっかり解決してくれている。

 

「この映画は精神分析学に強く関係する作品です。
ティルダだけが自我(ego)、超自我(superego)、そしてイド(ido)を演じられるというアイデアが気に入ったんですよ。」
THE RIVERより抜粋


ここで最後のネタバレを明かしてしまうと、ティルダ・スウィントンはマダム・ブラン、クレンペラー博士に加え、実は肉塊と化した偽魔女エレナ・マルコスを含めた3役を熟していた事が分かる。

つまりフロイトの提唱に倣い、自我の化身だったクレンペラー博士だけを残し、超自我のマダム・ブラン、イド(エス)のエレナ・マルコスをそれぞれしがらみから解放したという解釈もできるだろう。

 

そして究極の疑問は、スージーが何時から“サスペリオルム”だったのかという素朴な疑問点なのだが・・

 

 

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 嘆きの母

オリジナル版とは全く異なった解釈でのこの着地点のヒントは、実は劇中にも様々なカタチでしっかり描写されている。

その代表的なのは、スージーがこの舞踊団に入る際に、マダム・ブランの前で披露するフリーダンスシーン

彼女は舞踊団が10か月もの期間を費やしてきた次回作「民族」の主演パトリシアが失踪した事により、急遽その大役に名乗りを上げるのだが、その華麗で独創的なコンテンポラリーダンスの裏では、パトリシアの安否を危惧していたオルガの肢体が、スージーの手足を伸ばすタイミングに合わせてありえない方向へと曲がってゆく。。

一見オルガに呪いをかけた魔女たちの仕業にも見えるこのゴアシーンは、スージー自体を“サスペリオルム”とすると、その嘆きの魔力にリンクしてしまった憑依現象にもとれる。

だとするとスージーは、初めから意思をもってこの舞踊団の愚行に介入してきたようにも感じられるが、そこで思い出してもらいたいのが彼女の母親のベッドの横に写るタペストリーの文節。

「母はあらゆる者の代わりにはなれるが、何者も母の代わりにはなれない」

このフレーズは公式HPにも記載されている文節だが、スージーを“嘆きの母”とするとその真意は何を語っているのだろうか?

 

そこで重要になってくるのが、彼女の生い立ち。

 

オリジナル版ではニューヨーク出身の彼女を、わざわざ全米の統計上でもペンシルベニア州に次いでメノナイトが多く住むオハイオ州の出身に置き換えてきた監督の意図がここに垣間見えてくる。

メノナイト(英: Mennonite、メノー派)は、メノ・シモンズの名前に因んで名付けられたキリスト教アナバプテストの教派である。
メノナイトはブレザレン、クエーカーと共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動している。
wikipediaより抜粋

 

日本人には馴染みの薄い彼らは、その質素な生活様式と国際的な災害救助活動に熱心な点において、ボランティア精神を高く評価されている共同体の一つでもある。

しかしその純粋な精神の元で培われた少女が、もしキリスト教の根幹にもある「信じるものは救われる」という概念自体に疑問を抱いていたとしたら・・・

 

・・アメリカの片田舎での留学経験を踏まえた著者の余談でもあるが、、

この根底の部分を共有しない者達に対して、神格化されたあらゆる熱心な宗教はあまりに敷居が高い。

それは拠り所を共有する事のみでしか安心感を得れない全体主義社会の狭間で生まれた歪みでもあるのだが・・

 

自身がゲイである事を公言しているこの作品のルカ・グァダニーノ監督は、その思春期を世界中のメノナイトが多数移り住んでいるエチオピアの地で過ごした事でも知られているが、その多感な時期に彼らとの文化交流を通じて、マイノリティの性や宗教観の矛盾に葛藤したであろう現実は想像に容易い。

 

察するに、劇中のスージーもまた、その幼少期からの生い立ちの中で、何時からかこの歪みに迷い込んでいったのではないだろうか?

 

つまり、キリストの教え、或いはその復活を信じられない者たちの魂はどこへ向かうのか?

 

そんな蟠りを一手に引き受けた彼女こそが、“嘆きの母”=サスペリオルムに象徴される負の化身でもあり、ナチスドイツによって殺戮されたユダヤ人の魂の救済、或いは異端とされてきた土着信仰文化の魔女たちの憂いを解放させる唯一の存在に成り得たのではないだろうか?

・・それはまるで、負の情念蠢くRAFによる“ドイツの秋”や暗黒舞踊が舞い踊る70年代のベルリンに引き寄せられていくかのように・・・

 

映画のエンドロール中には、ベルリンの壁の崩壊した近代世界でもまだ尚、緑に覆われたクレンペラー博士の家だった場所に佇むスージーのアップショットが数秒間映し出されるが、安直なアートホラー映画のリメイクを文化的な価値観を持ってその格式を数段高めてきた監督の描く真の恐怖とは、個人主義に傾倒していく自分たちが内に秘める涙を拭う真の魔女が、現世にも今、貴方のすぐ隣にいるのかもしれないと思わせてしまう事なのだろう。。。

 

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