Midsommar/2020(アメリカ/スウェーデン)/148分
監督/脚本:アリ・アスター
主演:フローレンス・ピュー/ジャック・レイナー、ウィル・ポールター
禁忌のホラー映画
傍若無人に鬱憤を映画で晴らすアリ・アスター監督がまたやってくれた。
冒頭の意味深なタペストリーから、天地逆転のカメラアングル。
・・彼の抱える闇は、まだまだ深そうだ。。
全世界待望?かどうかはわからないけど、彼の映画作りのスタイルは、意外と視聴者の目線とマッチする。
ホラーは、娯楽だが刺激でもある。
その刺激を人が求める時、必ずそこに何かしらの憂い、又は心の隅にちょっぴり積もった澱みがあるはず。。
常人のオトナなら、そんなストレスをしっぽり抱えつつも、運動や他人との会話、或いは著者の様に酒と音楽とで誤魔化すのだが、純真無垢のまま、映像業界に片足を突っ込んだ者達の中には、それをビジュアル化して表現しようとする者も多い。
ちょっぴりサイコパスを疑ってしまうアリ・アスター監督もその御多分に洩れず、若干34歳にして新進気鋭のホラー映画監督に成り上がった彼は、『ヘレディタリー/継承』で授かったその恩恵を最大限に利用して、積年の辛みを晴らす。。
ここまでは、アーティストにありがちな性で済む話なのだけど・・・
ミッドソンマル(夏至祭)の中での北欧神話やルーン文字、おまけに禁じ手のサブリミナル効果まで使って、あまりに難解なレトリックを映像上に巻き散らすこの映画は、果たしてどこまで純粋なホラー映画と言えるのか?
148分という長尺の中で、その映像上の片隅にさりげなく仄めかす監督の女々しさが、何故かやけに印象的に映る。。
あらすじ
家族を不慮の事故で失ったダニー(フローレンス・ピュー)は、大学で民俗学を研究する恋人や友人と5人でスウェーデンの奥地で開かれる“90年に一度の祝祭”を訪れる。
美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。
しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖......それは想像を絶する悪夢の始まりだった。
Filmarksより引用
ホラーの色気
美しい薔薇の棘。笑顔の裏の泣顔。
そんな対極的な感情を表現したかったのは、十分に伝わる。
唐突にトラウマを突きつけられた主人公のプロローグから一変し、彼らが架空の村落ホルガに到着してからの、そのめいいっぱいハイライトに絞った伝承世界。。
まるでこれから始まる物語の全てが、夢の出来事かのような演出で、その一片の曇りもない笑顔で接してくる住民達の様子に、少しの不気味さを覚える。
けれど、予告編ローンチどおりにその薄気味悪さを受け入れようとしても、なぜか釈然としないのは、完全にパーソナルな視座に立った監督のこのジャンル映画に、ホラー映画特有の色気が感じられないから。。
例えば、ジョージ・A・ロメロで言うトコロの、ゾンビの哀愁が。
例えば、ジョンカペで言うトコロの、人の積もる不信感が。。
同じフォークロアな都市伝説をモチーフにしたリバイバル版の『サスペリア』でさえ、宗教否定のゴシック感覚だけに留まらず、アートの中に人間性を塗り込めて、不気味さを際立たせている。
それなら、カルトホラーを期待する自分達の視座が間違っていたのか?
どうにも消化できないそんな想いで、映画をもう一度見直してみると、監督のどこか後ろめたさのような過敏症な一面が、少しずつ垣間見えてくる。
男が引きずるもの(※以下、ネタバレあり)
痛さよりもグロさ、怖さよりも違和感。。
まるで、怖いグリム童話のような今回のアリアスター節は、一部では“凶悪な恋愛映画”とも呼ばれているらしい。
つまり、お伽話を見ているような感覚に陥るこの作品の秘儀は、監督のその不安定な恋愛観とも、しっかり直結しているようだ。
映画ナタリーの対談インタビューで、
「自分の人生を自分でコントロールできないことって、怖くないですか?」
とうっかり漏らしてしまった同監督は、その繊細でナイーヴな一面を思わず曝け出してしまったが、この心気症な一面の彼が抱え持つ依存的な恋愛体質そのものを、ホラーとして定義づければ、少し分からなくもない。
伝統的サタニズムを用いて、家族の崩壊劇を『ヘレディタリー/継承』で描いて見せた同監督は、今度は自然崇拝と能動的なキリスト教批判を用いて、撮影当時に破局した自分の恋愛感情の終着点を赤裸々に詳らかにしてみせるという・・
大抵の男は、一度はほろ苦い恋愛経験を持つ。
けれどそれを内に秘めて、同じ失敗を繰り返さない為の努力に大概は勤しむ。
その過程で、相手との思い出は情緒的に美化され、その古い記憶の瘡蓋が取れた時に、相手の幸せを心から願えるものになるが、もしその世界に女子的なリセットボタンが必要なのだとしたら、それはその相手の物理的な抹殺に他ならない。。
この一見女子脳的な様で、極めて自己完結型の悲観論者の心理状態こそが、この映画の真のコワさと言えるのだとしたら。。。
劇中で、監督のすり減った神経を見事に反映させたフローレンス・ピュー演じる主人公のダニは、映画の最初から終わりまで、一貫して不安定な表情を貫く。
彼女が、言い様のない不信感から終始気だるそうな雰囲気でいるのも、きっとその恋人の無神経さに自分の経験からくる後ろめたさが、見事に被っているからだろう。
そして今村組の『楢山節考』を彷彿させる姥捨て儀式の折には、その老婆の方はあっさりと自殺を成し遂げるが、老爺の方が勢いとは裏腹に無残に生き残ってしまうのも、監督のヒステリックな程の自己嫌悪感が漂ってくる。
極めつけは、すっかり花飾りに装飾され、ビジュアル的なアート装置と化したダニが、真の自己解放という大義名分の元、血走った目で恋人の殺戮劇を見届けようとする描写なんかからは、もうオカルトというよりも、監督の猟奇的な本能の断片にさえ、どうしても見えてきてしまう。。
そして、個人の意志がグループの共同意識によって飽和され、ダニがまるで根拠のない多幸感に包まれた時、その恋人は業火に包まれていく。。
けれど、これこそが監督なりの、女々しさを密かに抱え持つ全男性諸君に向けての、その心を整理する為に比喩的に用いられた儀式でもあるとすると・・・
この炎に、西洋的な煉獄のイメージというよりも、煩悩を打ち消す仏教的死生観と輪廻転生論とが封じ込められていた事で、少しはその救いが見えてきたけど、現実志向な女性よりも数倍、嫉妬の炎を燃やしてしまう傾向の強い男性陣には、くれぐれもそのサドマゾ思考の強いこの映画の恐怖に感化されない様、唯々祈るばかりだ。
「ミッドサマー」の上映スケジュールはコチラから確認できます。
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