マリブのブログ

ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ

映画『MOTHER マザー』の私的な感想―実話に基づく倒錯した聖母の祈り―(ネタバレあり)

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MOTHER/2020(日本)/126分
監督・脚本:大森 立嗣
主演:長澤 まさみ/阿部 サダヲ、奥平 大兼、夏帆、皆川 猿時、仲野 太賀、木野 花、土村 芳他

 共感性ゼロのドラマ

大森立嗣という監督の事をもっと知りたくなった。

彼はこの映画で、どんなメッセージを観客に届けたかったのだろう?

 

スクリーンの中でもんどりうつ様に試行錯誤する主演の彼女はおろか、この映画に出演している俳優達は皆、一様にリアルさがない

毒親を演じる長澤まさみのその屈託のない笑顔は、テレビドラマで愛想を振りまくように見せるそれと同じで、彼女の再婚相手となる阿部サダヲは、名バイプレーヤーの片鱗さえ見せずに、それに依存し続けるダメホストをどこかコミカルに熱演。

愛しのアイリーン』で息子を溺愛する老母を演じた木野花も、今回は打って変わってヒステリックなステレオタイプの母を演じ切り、彼女等を殺害する事となる孫役には、今回が初スクリーンデビューとなる新人を起用。

Red』で、妖艶な魅力を存分に放っていた夏帆に至っては、彼らに手を差し伸べる事さえままならない児童相談所職員を演じ、その様子は、まるで借りてきた猫の様に薄弱に映る。。

 

2014年3月に川口市で実際に起きた祖父母殺害事件から着想を得て作られた今回の映画は、つまるところ、史実に基づいた凄惨な事件過程を追いながらも、その悲壮感や人間模様を登場人物から感じ取る事は殆ど出来ない

 

大森立嗣という監督を知っている人間ならば、この胡散臭さがどこか気になった筈だ。

それならばこの共感性を全く求めない映画を通じて、監督はいったい何を求めていたのだろう?

 

 

 

 

あらすじ
ゆきずりの男たちと関係を持つことで、その場しのぎの生活をおくる自堕落で奔放な女・秋子。
しかし、彼女の幼い息子・周平には、そんな母親しか頼るものはなかった。
やがて寄る辺ない社会の底辺で生き抜く、母と息子の間に“ある感情”が生まれる。
そして、成長した周平が起こした“凄惨な事件”。
彼が罪を犯してまで守りたかったものとは——?
Filmarksより抜粋

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 毒親へと変貌していく違和感(※以下、ネタバレあり)

冒頭で、傷を負った少年の足を舐め上げる長澤まさみは、妙に艶かしい。

それはまるで、親猫が本能で子猫の尻を舐める時の様に。。

 

社会規範から逸脱して、子供をプールに飛び込ませる彼女も全くに無邪気だ。

だけど、ここでファムファタール映画の様な淫猥な魔力を彼女に忍ばせるのなら、それはどこか漠然とし過ぎていて、どうしても物足りなさを感じてしまう。

 

やがて、最低限の扶養義務さえも全うせずに、只管男に溺れていくだけの母親。
金だけを無心しにくる彼女に嫌気が指していくその両親。
それに付き従う事しか出来ないでいる幼い息子は、手を上げようとしたその祖母から、母親を守ろうとさえするのだけど・・

 

犯罪者の不遇を問う映画は世に溢れてるけど、彼らの半生は往々にして、小さなつまづきから始まる。

社会現象にもなった『Joker』では、奇病を患っていたアーサーへの偏見から始まり、アジア初のアカデミー賞の栄誉に輝いた『パラサイト』では、その染みついて拭えない貧乏の臭いから。。

そしてその彼らの細部の背景描写を綿密に描く事で、観客は主人公の気持ちに僅かながら同情を覚え、その歯がゆさが琴線に触れる妙味を膨らます事が出来る。

 

舞踏家の父と技巧派俳優の弟を持つ芸能一家の長男である大森監督は、それ故にシリアスな作風なのかと思えば、この映画においての明確なヴィジョンがどうしても始めはっきりと見えてこなかった。

天真爛漫の様に映る長澤まさみには奥深い不幸の臭いは一切感じられず、異様に早いテンポで進行するストーリーの中で、彼女はただ呼吸を続けるだけ。。

ともすれば、ドキュメンタリーの様にも見えてしまうこの映画において、主役にさえ感情移入しにくい設定の大森監督の目線は何処にあったのだろう?

 

サスペンスの常套句の様に“聖母か?怪物か?”なんて謳うキャッチコピーは、敢えて観客と演者との心の距離を遠ざけるサブリミナル。

だけどそんな小技を持ってしても、『コンフィデンスマンJP』等で痛快コメディーで主役を張る彼女には、不思議と希望の光さえ見えてきてしまい、そのイメージからの脱却はどうしても拭えない。

 

ほんの少しだけ妹にコンプレックスを抱くだけの彼女の様子は、どこにでもいる普通の母親。 。

街を歩けば違和感の全くない親子に写るその様子が、マスコミの作り上げる虚像の裏で、聖母の様に只無邪気なだけの女が、徐々に毒親へと変貌していく違和感をじっとりと伝えてくる。

 

 

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 倒錯した聖母の愛情

結論から言えば、早撮りの名手として知られる大森監督は、そのクレバーな思考回路の中で、この観客との心情の不一致を映画の論法として、問いかけてきたように感じる。

つまり、固定概念と不明瞭な善悪の基準に踊らされている自分達に、この毒親予備軍に陥りそうな人間達への偏見を、警笛として鳴らしているのではないだろうか?

 

秋波に塗れた“秋子”が求め続けてるのは、絶対的なその居場所だ。

無気力な彼女が定職に付けないのも、その始発駅自体が存在さえしないのだから。。

彼女の前を通り過ぎるだけの男達が、皆一様に彼女のグラマラスな体目的なのもその為だ。

 

そのもどかしさの中で膨らんでいく嫌悪感を、観客の脳裏にたっぷりと焼き付けるこの映画は、予算のない日本映画界では極めて珍しく、撮影を順撮りで熟す事で、毒親自身の断罪よりも、その虚しい生活の過程に焦点を当てる。

 

共依存の関係にある親子は、自分達がその当事者である事に中々気付けない。

やがて、自由奔放に振舞っていたはずの母親がいつの間にかすっかりやつれ果て、その縄張りに踏み入ろうとする相手に敵意をむき出しにし始める瞬間に、自分達は彼女が引き返せない犯罪者の道に足を踏み込んでいる事に気づくのだけど・・

それは、自己肯定感を得る事なく育った普通の女の、あまりに無残な潮時。

けれど、一見この身勝手に映る彼女に吸い寄せられるフェミ男達は、その根強い男根至上主義に自分達が踊らされている事に、気付く様子さえも見せられずに。。

 

やがて取り返しのつかない犯罪に手を染める息子も、言わば、この完全な犠牲者と言える。

実際の事件では、この彼に責任能力を認める判決が言い渡されたそうだが、この司法の手の行き届かない闇を、少しでも表舞台に引き釣り出したかった監督の執念が、この映画の実現を成功させたのだろう。

 

ラストで、呆けた様な顔で宙を見詰める秋子の目線の先には何も映らない。

だけどこの倒錯しきってはいるが、聖母の様に献身的な愛情が息子にも引き継がれていた事に気づいた時、彼女はいったい何を思うのだろう?

 

実際のこの少年の取材記録をまとめ上げた原稿と、その彼の社会復帰に向けての支援の輪が広がっていく様子をしたためた本を毎日新聞の記者が後に出版したが、この強盗殺人事件の前日に、彼が北千住駅前の大型ビジョンで聴いた松井亮太の「あかり」のエピソードは、その何よりも感慨深い。

後に、刑務所内で記した少年の詩に松井亮太自身が曲をつけた「存在証明」という楽曲があるというが、その中で「ほんのわずかでも、君が少しでも、私を望んでくれるなら、笑ってありがとうと言ってくれるなら、何度、何千度、何万度でも君の為に言葉を紡がせてください」という歌詞の部分は、この少年が今も尚、母からの呪縛に捕らわれ続けている事の証だ。

 

ヒット映画の定石を全てかなぐり捨てた大森監督と、上辺だけの好感度に違和感を覚え始めた長澤まさみは、この映画を分水嶺にして、あらゆる批判に反旗を翻してでも、矛盾した社会に真剣に向かい合う覚悟を決めたのかもしれない気がしてきた。

 

「MOTHER マザー」の上映スケジュールはコチラから確認できます。

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